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連載全3回のうち第2回目

作成:讃匠 麺研究センター

私について

0.「私自身のこと」

私は仕事柄、取材されることが多く、私の過去、現在、未来を語ることが多いのです。
そのような取材の中で、多い質問が”何故、製麺機の製造販売の仕事しているのですか”という質問が多いのです。
そのような質問に答える場合は、私が小さいころの私の人生全てを話さなければいけないのです。 ですから、今回は「私の人生」について書いてみようかと思います。

① 私の生い立ち

私は昭和23年(1948年)5月10日生まれで、現在満77歳になります。
小さい頃は出来が非常に悪く、周りの人たちから馬鹿にされていたことを懐かしく思い出します。
多分、物分かりの悪く、小さい頃は頭が悪いと、周りから思われていたようです。
いまになって振り返ると、小さい頃の出来が悪かったことは、 永い人生において全然問題でなかったことが良く分かります。
当時の私の家は裕福ではなく、栄養が足りていなかったようで、幼稚園に入るころに結核になり、 幼稚園に行かずに療養生活を1年間送りました。

小学校1年生から初めての集団生活が始まったので、 そのために、周りの同級生たちと馴染めずに、毎日、学校では喧嘩ばかりやっていて、 先生の一番の鼻つまみの生徒だったのです。 そして、気の合った悪友たちとつるんで遊びまわっていたのです。 小学校低学年までは、非常に出来が悪かったのですが、 小学校3年頃から近所にあった珠算教室に通い始めて、 自分の得意分野に巡り合い、更に小学校高学年では模型飛行機作りに熱中しました。 その結果、自分はモノ作りに向いているということを見つけたのです。 これが、現在の仕事を始めるきっかけになったように思います。

手先は、私の親父ほどは器用ではなかったのですが、 モノ作りにおいて新しいものを考え出す、創り出すと言うことに面白さを見出したのです。 従って、人生の比較的早い時期に好きで、得意な分野と巡り合えてことは、 幸せなことだったと思います。 小学校6年位だったと思いますが、自分が大きな模型飛行機を作り、 それに乗って空を自由に飛び回る夢を見ていたことを今でも思い出します。 まさに夢を見る少年時代を過ごしたのでした。

② 高松工業高等専門学校時代

  小学校高学年から中学校にかけては、少しずつ勉学が面白くなり、 特に算数、理科、幾何学が得意になりました。従って、自分が理数系に向いていることを見つけて、その頃、 日本全国で出来始めていた高専に入学したのです。 高松高専は、中学校を卒業して入学し、5年制の学校で、 年齢的には短大と同じですが、まだ高専という制度が出来て3年目の入学で、 その当時は、非常に珍しがられていました。

憧れだった高松高専に入学してみると、先生も普通の学校の先生とは全く異なり、 今になって思えば、情熱にあふれる先生ばかりだったと思います。 特に高等専門学校の制度が急に全国に出来たために、先生が不足して、 それまで大手企業で課長職とか、部長職だった人たちが企業を辞めて 高専の教授になったような方ばかりで、授業も破天荒な授業が多かったです。
そして、その頃学んだ、材料力学とか、熱力学とかの授業内容が 今のビジネスでも大きく役立っているのです。 特に、その頃学んだ材料力学が、美味しい麺を作る時の組織の破壊のモデルにピッタリ合ったのです。 高専時代は、学びも熱心に行ないましたが、それ以上に熱中したのが運動で、 小さい頃、身体を壊したために、充分な運動が出来ずに身体を鍛えるチャンスがなかったので、 最初に剣道、次に少林寺拳法に打ち込み、少林寺拳法時代には、 通常の人生では体験出来ないようなことも、たくさん体験する事が出来たのです。

③ 川崎重工時代

私は小さい頃から模型飛行機作りに打ち込み、飛行機が大好きで、飛行機の設計がしたかったので、5年制の高松工業高等専門学校を56年前に卒業し、川崎重工業、航空機事業部に就職しました。
入社後の体験実習では、戦後初の国産旅客機YS-11の最終組立ラインで主翼のリベット打ちを体験しました。 また航空自衛隊初の国産ジェット輸送機C-1の設計図の一部に携わり、C-1輸送機の初飛行も体験しました。

 その後は、航空自衛隊の主力戦闘機になったF-4EJファントムのライセンス導入に携わりました。  航空機事業部で働いている間で学んだことで、今でも役立っている概念が、 飛行機の設計におけるフェイル・セイフとか、デザイン・フィロゾフィーという概念です。 これらは、飛行機を設計する上での基本となる設計思想です。

飛行機は空を飛ぶので、安全性を非常に重要視し、どれか1つに問題が発生しても他の機能でカバーして、 安全に飛べるようにするのが、フェイル・セイフという設計思想で、例えば、戦闘機の場合は、 ファントムの1世代前の戦闘機F104の場合は、胴体にエンジンが1発だったので、 エンジンが故障すると、即、墜落です。しかし、ファントムの場合は、胴体にエンジンが2発なので、 1個のエンジンが停止しても安全に飛行を続けることが出来たのです。 これがフェイル・セイフという概念で、これは現代では全ての構造物の設計概念に 取り入れられているのです。

次にデザイン・フィロゾフィーは、設計の最初の段階のコンセプト作成に当たる概念で、 最初に決める基本設計によって、その後の全ての機能、働きが決まってしまうのです。
例えば、製麺機で言えば、麺の品質、美味しさを最優先に置いて、製麺機を設計するのか、 或いは、コストを最優先にして設計するのかにより、製麺機の本来の性能、値打ちが全く異なります。
当然、当社の場合は全て、麺の美味しさ、機械の安全性、使い勝手を最優先しているので、 その分、当然機械の価格は上がります。

従って、何処にウエイトを置くかというのが、デザイン・フィロソフィーで、これはその後、 私が独立してから仕事を進める上で非常に役立った概念です。 例えば、麺学校の経営講義で教えているコンセプトに相当するのが、 デザイン・フィロソフィーだったのです。  飛行機が好きで川崎重工に入ったと言っても過言ではありませんが、 残念なことに、当時、川崎重工では設計する機体がなかったのです。 それでも私はどうしても設計がしたかったので、航空機事業部の景気が悪くなり、 その頃活況であった造船事業部に転籍したのです。
造船事業部では、エンジンルームの設計部署に配属され、念願の設計に携わることが出来たのです。 希望通りの設計ができたのですが、複雑なメカ的な要素がなく、単純な設計なので、 機械設計者としての技術レベルを上げ続けることは出来ないと思い、3年間造船の設計を行ない、 ちょうど49年前に独立を果たしたのです。

④ 会社の設立の経緯

私は根っからエンジニア向きの人間だったので、独立するのであれば、 初めは工業用ロボットとか、自動機械の様な複雑なメカニズムの動き回るメカの分野を希望していました。
ところが、親戚は全員独立に大反対していましたが、反対を押し切り、 青雲の志で独立したものの、その頃は、第2次オイルショックの時期だったので、 私の希望するような仕事は全然なかったのです。また希望する仕事が全然なかっただけでなく、 設計の仕事自体がほぼなく、仕事探しには大変苦労しました。
6年間勤務した川崎重工の退職金が9万円で、私が退職してから、川重では希望退職が始まり、 希望退職に応募した同僚の退職金は100万円だったのです。

周りの反対を押し切って独立し、個人の機械設計事務所を立ち上げたのが、 「大和製作所」の前身なのです。 独立後、あちこちで数限りない失敗を繰り返しながら、徐々にビジネスのこと、 ビジネスの厳しさが分かり始めたのです。 設計の仕事を探して、いろんなお客さま訪問を繰り返す間に徐々に分かってきたのは、 私が住んでいた香川県は、讃岐うどんの本場で、徐々に麺関連の仕事入ってきたのです。 麺に関する仕事をしたら良いと先輩たちからアドバイスをもらい、 製麺機ビジネスをはじめました。

独立する前から、本田宗一郎にあこがれていた私は、 製麺機ビジネスをはじめるにあたり、初めからトップを目指しました。 そして、トップになるには何が重要かを深く考えこみました。 その結果、トップになる最も重要なことは、「麺の美味しさ」だと思い、 麺の研究に取り組みはじめました。 麺の美味しさを測定する機械も買い揃え、麺の研究を徹底的に行い、気づけば、 麺の面白さの虜になり、いつしか麺ビジネスが天職に感じていたのです。

一般的な人は、どのメーカーの製麺機でも同じだと思っているでしょうが、 それぞれの製麺機の設計思想の違いにより、出来上がっている製麺機は全く異なるのです。 製麺機で美味しさが変わり、繁盛するかどうかが決まります。 それほど、製麺機の決定は麺ビジネスの繁盛にとって重要項目ですが、 ほとんどの麺ビジネスのオーナーは気づいていないのです。 最初にうどん用製麺機「真打」の開発に成功したのですが、販売する仕事が待っていました。 販売を思い立った私は、どこから攻めようか迷いましたが、 私は営業がからきし苦手だったので、まず他の営業マンとバッティングしない 日本の一番南の鹿児島から販売を始めました。 地元で有名な厨房屋さんに紹介していただき、販売をしていきました。 スタートしたばかりなので、信用はゼロだったので、地元の知名度と信頼のある厨房屋さんを見つけ、 トラックに機械を積み込み、各地で実演して販売しました。 そのようにして、私の人生初の営業活動が始まりました。 そして、当社の製麺機を使用し、繁盛していったお店が増え、全国に広がっていくようになりました。